一市井人が考えたこと

会社員が考えたことを綴ります。

映画「闇金ウシジマくん」の感想――狂言回しに求めらるものと「うまい演技」とは

Netflixで映画版の「闇金ウシジマくん」を鑑賞しました。

アウトローを描く映画は嫌いではないし、退廃的な雰囲気も好みです。

感想を2点ほど書きます。

 

狂言回しの役に求められる人物設定

今回も主人公はあくまで闇金の債務者たちが演じ、山田孝之演じる丑嶋は、いわゆる狂言回しの役回り。これはドラマ版でも踏襲されてきたものです。

ブラックなドラマの狂言回しなので、いわば、現代版の『笑ゥせぇるすまん』の喪黒福造のようなものです。

狂言回しのキャラクターは、どのようなストーリーでも対応できるよう、汎用的な人物設定がされる必要があると思いました。各ストーリーのどの主人公たちとも自然に関わりが持てるような人物設定ではなくてはならない。

丑嶋が寡黙なのは、迫力あるキャラクターとしたことと同時に、できるだけ汎用的な人物設定をしたからなのではないでしょうか。

 

「うまい演技」とは

助演の大島優子の演技がうまい。19歳のニートの少女で、母親がギャンブルで作った借金の返済に追われる役回りです。しかし、演技がうまいとはどういうことなのか。以下のいずれかなのではないでしょうか。

  1. 本物の19歳のニートの少女そっくりである
  2. 鑑賞者が想像する、19歳のニートの少女のイメージに沿っている

本物の19歳のニートの少女の知り合いどころか、19歳の少女の知り合いがいない私からすると、上記「1.」と照らし合わせて「演技がうまい」かどうかを計ることはできないはずです。よって、上記「2.」の通り、私が想像する19歳のニートの少女のイメージに照らして、「演技がうまい」と思ったのでしょう。

私は中学生時代、ドラマ『渡る世間は鬼ばかり』で中学生役を演じていたえなりかずきの演技に違和感を感じていたのですが、世のおばさまたちが「えなりくんは演技がうまい」と絶賛していることにそれ以上の違和感を持ったものです。おそらくは世のおばさまは本物の中学生とえなりくんの演技を照らし合わせたのではなく、彼女たちが想像する中学生像をうまくなぞったえなりくんの演技に拍手を送ったのでしょう。

これからは、人の賛辞に第三者として触れる際は、彼・彼女がどのような評価基準で讃えているのかに注意したいと思います。